釣り人はみんな友達

加藤誠司倶楽部

プロアングラー/ルアーデザイナー・加藤誠司のオフィシャルサイトです

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加藤誠司のプロフィール

加藤誠司(かとうせいじ)
加藤誠司(かとうせいじ)1960年10月生まれ 千葉県出身 ホームレイク:琵琶湖 座右の銘:釣り人はみんな友達 釣りは世界の共通語

幼少時代

5歳の時に父親に連れられて初めて釣りをする。フナ釣り。

小学2年生くらいから、友達と近所の花見川(千葉市幕張)へはぜ釣りに行くようになる。
5年生でヘラ釣りを覚えた。
ちなみに、小学校低学年のときの将来の夢は虫博士になることだった。夏休みの自由研究では採取した昆虫で作った標本は表彰されるほどの腕前だった。興味を持ったことにはとことんのめり込むというところは性分なのかもしれない。

学生時代

中学1年生で初めて印旛沼で鯉を釣る。近所の釣り堀へ通って腕を磨き、週末は野池で鯉釣りをして過ごす。
中学2年の時に父親の転勤で高松へ。
高松では、マンガ釣りキチ三平がきっかけでライギョ釣りを始め、これがルアーフィッシングとの出会いになる。ルアーフィッシングをライギョで覚えた後、高松の自然の中で友人と一緒に渓流イワナ、アマゴ釣りを覚える。
中学3年生になると、雑誌等でブラックバス釣りの存在を知る。

高校1年の時に高松から松山まで遠征して、やっと初めて石手川ダムでラージマウスバスを釣る。
高校1年の夏に、河口湖、精進湖へバスを釣りに行くが全く釣れず、釣れない悔しさと面白さを経験し、翌年の夏休みには、芦ノ湖、山中湖、相模湖、津久井湖へ行く。
ちなみに、中学時代はテニス部で活躍し県大会ベスト4まで進んだが、高校時代は釣りに行けなくなるのがイヤで、テニス部を1年で退部した。

大学入学後は本格的にルアーフィッシング、フライフィッシングにはまる。さらに沢登り、冬山登山などが好きで常に体を鍛えていた。あの頃はストイックだったと今でも思う。
ちなみに、車いじりが好きで自分の車の車検整備をする腕前があった。
いくつかのアルバイトもやった。管理釣り場でフライフィッシングのインストラクターや工場用エレベータの設置、演劇などの舞台の大道具係をした。

ダイワ精工時代

大学卒業後ダイワ精工(株)に入社。研修でキャスティング錦糸町店に配属になり数カ月間勉強する。
その後富山営業所へ転勤になる。富山ではイワナ釣りとクロダイ釣りをしていたが、私の1年後にやってきた先輩から「琵琶湖が凄く釣れる」という話を聞き、1984年秋に琵琶湖を初体験。あまりにも釣れたためすっかり虜になってしまい、翌週には勢いでカヌーを購入(当時はアルミボートなどまだなかった)。
琵琶湖では北湖を中心に、買ったカヌーで毎週のように50匹以上のバスを釣っていた。
その後転勤で松山営業所へ移りアユ釣りと一通りの淡水魚の釣りを、磯釣りではグレ、鯛、シマアジ、ヒラマサなど海の釣りを教わる。

それから2年後の私が26歳か27歳の時に、初めてJBのトーナメントが面河ダム(おもごダム)で開催され、カヌーで出場するがコテンパンにやられて火がつき、そこからトーナメントの世界にのめり込んでいく。そして松山からまた琵琶湖へ通うようになり、毎週末はトーナメントとトーナメントのための練習にあけくれるようになる。

その後東京へ転勤になり、商品企画部商品企画課でルアーの開発に携わることになる。
配属後、最初に手掛けたのはピーナッツⅡ。それ以降TDシリーズ、ショアラインシャイナーシリーズなどBASSだけでなくSaltWaterやトラウトと釣り全般にかけて商品を企画する。
当時のチームダイワプロ、リッククランプロ、デニーブラウアープロ、ジョージコークランプロと直接話をしたり釣りをする機会を得て知識を高め、JBトーナメントでは常に上位の成績をキープするようなる。その後企画した製品がウイニングルアーとなることも多く、TDシリーズがブームとなる。

1993年ダイワ精工を退社。

ダイワ精工時代画像1 ダイワ精工時代画像2 ダイワ精工時代画像3
ラッキークラフト時代画像

ラッキークラフト時代

1994年、株式会社ラッキークラフト専務取締役に就任。

ラッキークラフトでは、最初から最後までのすべてを自分ですることから始まった。まず、作ろうと頭に描いたルアーを物体化するために、手でプラスティックの立方体を削り出して試作を作り(ルアー1個削るのに8時間くらいかかった)、テストをする毎日が続いた。数個の試作の中から作るルアーが決まると、金型設計・量産モデルのプロトのテスト・カラーリングの決定・パケージデザイン・広告の入校・販売店への営業と何でもこなした。
お客様と直接つながるため、ラッキークラフトネットワークメンバーも立ち上げた。しかし、当時使っていたパソコンのMacはメモリが8MB、ハードディスクが160MBだったので何をするにも時間がかかった。

2年ほどするとパソコンの性能も上がり、3Dデザインソフトが開発され3Dソフトを使ってルアーをデザインすることができるようになった。とはいえ、複雑な流線形の三次元画像を解析するには性能がまだまだ足りなかったためレンダリングに8時間もかかっていた。一生懸命デザインしたデータが終盤にさしかかったところでパソコンが落ちてしまったことも1度や2度ではない。

この頃はトーナメントに勝てるルアーを意識して開発していた。幸運にも1994年の春にラッキークラフトから初リリースされたベビーシャッド50は、発売から3日後に河口湖のトーナメントでウイニングルアーとなり、小型シャッドのブームが巻き起こした。
その後発売したフラッシュミノーは大塚プロがJBクラシックで優勝してウイニングルアーとなり、サミー85はアメリカのトーナメント: レッドマン リージョナルチャンピオンでウイニングルアーに。CB200はWONBASS CLASSICで勝った。
また、ビーフリーズ(アメリカではポインター)は、私がアメリカのトーナメントに参加した時に同船したデニス・ホイ氏に渡したものがウイニングルアーとなり、その後ケビン・バンダム氏がエリートシリーズで使って優勝するなど、勝てるミノーとして有名になった。私のデザインするルアーはアメリカのトーナメントで勝てるルアーとして認知されていくようになる。

現在

1999年JACKALL.co.Ltd.を創立。

最先端機器を揃え、理想のルアー作りの環境を整えた。創立から2年目で巨大水槽を設置、さらに回流水槽でアクションの分析もできるようになり、今までにない物作りをするようになる。
また3Dデザインも、格段に性能がアップしたパソコンによってモデリングマシンの精度も向上し、プロトタイプを作るスピードが飛躍的にアップ。8時間かかっていたことが1時間程度でできるようになり、より多くのテストをすることが可能になった。現在も世界最速のシステムを使って開発に勤しむ日々を過ごしている。

ジャッカル設立後のルアーデザインは、より明確なコンセプトを持ちながら誰が使っても釣れるもの、また新しいことへの挑戦を意識しながらもの作りをしている。
タングステンが頭に露出したTNシリーズ、ジョイントのクランクベイトアラゴン、曲がるボディーのマスクシリーズ、ジグヘッドワッキーにマッチした曲がったワームフリックシェイク、リアルビックベイトのベイロン、FLTブランドS字アクションのZILLVAなどなど新分野への創造は続く。
もちろん、私がデザインしたルアーがトーナメントでのウイニングルアーになることは変わっていない。
フリックシェイク、クロステール、アラゴン、DDスクワレル、スカッドミノー95などは数トーナメントでウイニングルアーとして認められ、スポンサーの関係で公表されていないものまでを含めると本当に多くのルアーがトーナメントシーンで勝てるルアーとして活躍している。

昨今、私から溢れ出すイメージは発達したコンピューターのおかげで画面上で表現できるようになった。
しかし、どんなに機械やソフトの性能がアップしても、最終段階では自分の手作業による微調整を施す必要があります。昔、手で創っていたからこそ備わった研ぎ澄まされた感覚は唯一無二なのです。
そして最先端技術をもってしてもどのルアーが釣れるものかを推し量ることは未だ非常に難しいものです。ですから、釣れるルアーを作るためには、今までの長年の経験と感性そして最先端技術の両方が兼ね備わっている必要があるのです。
だから私は現役のトーナメンターとしてバスフィッシングシーンに身を置き、常に研ぎ澄まされた感性が失われないように心がけ、そして最先端設備のなかで研究開発を続けているのです。
これからも挑戦を続けるルアービルダーであるために。

加藤誠司

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上位入賞歴

2007年 BASSMASTER ELITE LAKE AMISTAD Champion Co–Angler
2007年 JB TOP50七色ダム優勝
2010年 JB TOP50檜原湖 優勝

バス問題の経歴

2002年6月、琵琶湖のリリース禁止が条例化されるという話が飛び込んで来た。ありえないような話である。当時42歳。
政治や行政などにまったく関係がなかったところに、未知の障害が立ちはだかった。そしてバスフィッシング関係者の多くが傍観、立ち上がろうとはしなかった。
結局、地元のメーカー社長ということもあって琵琶湖バス釣り人協議会なるものを立ち上げ、実行委員長に私がなった。私は今まで多くの釣り人に生かされてきたという思いが強かったし、バスフィッシングを守りたかった。

漁業者、行政、政治家、その他難しい人たちとの調整の日々。人には言えないような話ばかり。行政側と調整すれば釣り人側から攻撃され、苦悩の日々が続いた。
他のメーカーの人は普通に仕事をしている中、昼も夜もバス問題に時間をとられるからルアーを作れる時間は当然少なくなる、結局睡眠時間を削って耐え凌いだ。
このバス問題の間に行政との接し方、県会議員や知事、国会議員などの関係式など多くのことを勉強した。

2004年、今度は国が外来生物法を施行し特定外来生物にブラックバスが指定されるという問題が現れた。
まただ。今度は霞ヶ関に出向き調整とお願いの日々。
2005年2月いよいよ本当に指定されるとなって、やっと他のバス関連の人のケツにも火がついたようだ。より多くの人を集めるということでBASSFANNETを立ち上げ,多くの釣り人の声として行政に届けた。

2002年より琵琶湖レジャー利用適正化審議会委員として調整を続け今日に至る。

主な役職

日本釣り用品工業会 常任理事
全国釣り竿公正取引協議会 理事
全国釣り団体協議会 理事
滋賀県釣り団体協議会 副会長
日本釣振興会 滋賀県支部 理事

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